修行の日々・・2 「生活と心模様」
清見村での木工修行の2年間、
僕自身は、まったく無収入だった。
公的な技術専門校とは違って、一切の補助がなかった。
だから、入塾に際しての条件として、
最低2年間を生活できるだけの蓄えが必要・・とされていた。
が、僕の場合は・・・
奥さんが生活を支えてくれたのだ。
(注:僕が修行していた十数年前の「森林たくみ塾」と、現在とでは、運営の形態がいろいろと変わっているようです)
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12人の同期生は、当然だが、僕よりも若い独身男女がほとんど。
夫婦で飛騨高山に移って来たのは、僕を含めて3人だけ。
僕以外の2人は、早期退職でこの世界に挑戦しにやって来た、
年配男性たちであった。
僕の奥さんは、高山市内の米穀店に就職し、生活を支えてくれた。
僕は被扶養者となり、2年間を過ごしたのだ。
僕は日々、昼と夜の2食分の弁当を作ってもらい、
高山市内の借家から清見村の塾地まで、
片道12kmの道のりを通った。
昼間はひたすら、
親会社・オークヴィレッジの家具やクラフト品の制作。
夜間は座学や、課題の制作。
そんな毎日なのに、しかし、
タフな仲間連中は、深夜や、夜学のない晩などを利用して、
アルバイトもこなしていた・・。
(打ちっぱなしゴルフ場の球拾いなど)
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ところで、話をぐっと基本的な部分に戻してみる。
長く勤めた会社を辞めて、木工の道へと転身したことで、
多くの人から言われることが2つある。
1つ目は、「よく決断しましたね!」「すごい勇気ですね!」
ということ。
2つ目は、「奥さんの理解があってこそですね!」
ということ。
奥さんの理解については、本当にその通りで・・。
理解というか、共同意識というか、
共感してもらえるように丸め込んだ、というか・・。
しかし僕自身については、
「勇気を出して決断した」という感じではなく・・。
夢を追いかけているうちにこうなってしまった、というか、
夢みたいなことばかり考えているうちにこうなった・・というか。
頭の中身が軽いというか、
結局、思ったことをどうしてもやってみないと気が済まない、
というか・・。
けれど、頭の中身が軽かった分、
後々ちゃんと、重たいツケがまわって来るのだけれど。
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でもまあ、そんなわけで、
当時の僕ら(夫婦)は、新しい土地での新しい生活を、
自分たちなりに楽しんで暮らした。
休日には、見知らぬ土地を旅してまわった。
能登や金沢へ・・。
将来への不安のようなものは、あまり感じていなかった。
木工業界や家具業界が下降気味である・・という現実を、
たくさん見聞きしていても。
下降の傾向に当てはまらないやり方を考えればいい、と、
単純に考えていた。
(もちろん、そんなに甘いものではないことは、独立後に思い知る)
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それが「良いもの」ならば、工夫すれば売れる・・という考え方が、
11年間、東京の書店で働いたことで身に付いていた。
「本」というのは、
どこの本屋でも同じ値段で、同じものを買うことができる。
だから書店人が本を売るためには、
知恵をしぼって、工夫をこらさなければならない。
売れている本を、他所よりも多く売るためには、どうすればいいか。
知られていない良書を買ってもらうために、どう工夫するか。
価格の競争ではなく、知恵を絞ること。
人の関心を、ぐっと引きつける企画力。
つまり、アイディアでがんばっていこう・・と、
僕は考えていたのだ。
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しかし、修行1年目が経過するころ、
僕はモノ作りのもっとも基本的なところでつまずき、
ひどく傷つき、
情けの無いことに、
奥さんの前でポロポロと涙をながすことになる・・。
(つづく)
(写真上)オークヴィレッジのショールームにて。
(写真下)岐阜大学演習林で、樹木の調査。
(下写真)高山市の木材市を見学