修行の日々・・1
1997年4月、
僕はそれまで勤めていた東京の会社を退職し、
飛騨の清見村にある「森林たくみ塾」へと入塾した。
29歳のときだった。
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11年間務めた会社(書店)を辞めるのは、
僕にとって、本当に大きな出来事だった・・。
その職場には大恩があり、
職場の人たちへの僕の思いの重量は、
十数年が経過した今でも、言葉には変換できない。
ただひたすら、自分の信じた道を生きて、
悪戦苦闘する姿を見てもらう他ない・・。
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さて。
僕が踏み入った「森林たくみ塾」の世界は、
あまりにも未知に過ぎた・・。
会社員として11年間積み上げたキャリアは、
当然だが、すべてゼロに戻った。
時間をかけて登って来た道を、一気に海抜0m地点へと、
突き落とされたような感じがした・・。
当時の森林たくみ塾のカリキュラムには、
メインの木工技術の習得の他に、
独自な環境教育プログラム が含まれていた。
なので、「木工」以前に、
耕耘機で塾の畑を耕したり(冒頭写真)、
ダンプで堆肥を運んで撒いたり、
ユンボで穴を掘ったりと、
いきなりのフィールド・ワークに面食らった。
つい先日まで、
ネクタイを締めて、満員電車に揺られていたのだ。
耕耘機に触れたことはおろか、
スコップですら、まともに使った事が無かったのだ。
マニュアル車を運転出来ないと、
お話にもならないところだった・・。
何よりも僕が落ち込んだのは、
このタフなフィールドにあって、
いかにも自分がヤワなお坊ちゃんに感じられたことだ。
冒頭の耕耘機の写真を見て欲しい。
都会からやって来た「坊ちゃん」丸出しだ。
対して、同期生は、タフな連中が多かった。
連中は、持参する弁当からして、すでにタフだった・・。
でっかいタッパーに、大量の白米とキャベツの千切りのみを
詰めてきた強者もいた・・。
(2年間無収入で修行するので、みんな金が無かった)
こんなタフな場所に集まって来る連中だ。
男も女もクセのある、
図太い人間に決まってる(←失礼だなあ・・)
神経が細くて、弱っちくて、
傷つきやすいガラスの青年は、
どう見ても自分だけだ・・と焦っていた。。
*写真上*
対向車すれ違い不可な農道の突き当たりに、
当時のたくみ塾はあった。
*写真下*
当時、工房はプレハブ造り。タフな作業環境だった・・。
(次回へつづく)