北の国へ・・・2
( 北海道ニセコ山麓の、廃校の家具工房「湯ノ里デスク」。
東京で会社員をしていた僕が、どのような経緯でこの仕事を始めることになったのか、書いてみたいと思います・・。)
1992年の11月、生まれて初めて北海道へと旅行した!
・・実は、その2ヶ月前に、
鹿児島県の屋久島を、僕は一人旅していて・・、
そこで、同じように一人旅で来ていた、
とある女性と知り合った。
聞くと彼女は、北海道から来ているとのこと。
3年前に東京で富良野塾の舞台を見て以来、
遠ざかっていた北海道が、
ふたたび近くに現れたようにも(勝手に)感じた・・。
そんなわけで、(どんなわけ??)
屋久島で知り合った彼女を頼って、
僕は遥かな大地、北海道へと旅立ったのだ。
生まれて初めての北海道は、何もかもが新鮮で、
感動の連続だった。
清々とした空気感、
広々とした風景、
延々とした直線道路・・・。
二泊三日の最終日、
僕は彼女に頼んで、富良野に連れて行ってもらった。
3年前、下北沢の劇場で、
舞台「谷は眠っていた」を見てからというもの、
僕は倉本聰さんの著作を、何冊も読んだ。
そして、ドラマ「北の国から」のビデオをレンタルして、
全てを見た!
だからこの旅で、五郎の丸太小屋を訪れた時には、
しみじみと感動した。
そして、丸太小屋に掛けられていた、
倉本さんの手書きの看板に、胸がじんとなった・・。
『灯りは小さくても、いつもあったかい』
・・五郎さんの小屋の前で、僕はふいに、
自分がずいぶんと遠い土地まで来たことを実感したのだった・・。
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その後、東京に戻ってからも、
僕は4ヶ月に一度のペースで北海道へと旅した。
何度も通ううちに、
ますます北海道が好きになっていった僕はやがて、
自分も北海道に、それも、
富良野塾に飛び込んでみようか・・と、
じわじわ考え始めていた。
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1994年の2月、
東京・銀座の、リクルート本社ビルで、
富良野塾(何期の募集だったか??)の2次試験を受けた。
受験を決心するきっかけは、これまた、一冊の本だった。
インターネットなど無い時代、
このような情報は、主に、雑誌等でしか得られなかった。
そういう意味では、
これは倉本聰さんの創作活動の世界が紹介された、
僕にとっては画期的な情報誌であった・・。
この本を読みながら、
<自分はいつやるんだ? ・・今でしょ!>
・・と、熱く決意したのである。
1次試験は作文で、
確か、「富良野塾を受験する理由」を書くのが課題だったと思う・・。
やがて、1次試験通過の通知が届くと、
僕はもうすっかりその気で、
自分も北海道に行こう!
富良野塾で学び、役者として舞台に立つのだ!
・・と、
(勝手に)確信していた。
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2次試験の内容は、
渡された短いシナリオを演じること、
簡単なダンス、集団での面接、
・・であった。
もちろん、目の前の審査員席にはあの、
ギョロリとしたするどい目つきの、
倉本聰さんがいた。
内面を見抜かれるような、凄みのある視線に、
当然ながら緊張したが・・・
当時の僕としては、最善を尽くしたつもりだった。
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試験の数日後、落選の通知が届いた。
自分の生き方を、大きく転換する確信で、
ひとり胸を熱くしていた僕は、
意気込みが先走り過ぎていたこともあって、
激しく落胆した。
拠るべき世界を、失ってしまったように感じた。
胸の中が、空白になってしまった・・。
(つづく)