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yunosatodays

北海道ニセコ山麓、廃校の木工房。湯ノ里デスクの田代がお届けする、モノ作り&山暮らし通信です。

修行の日々・・3 「デザイン」

木工の修行を始めてから9ヶ月が過ぎた頃、

僕にとって、大きなピンチがおとずれた・・!

 

季節は、飛騨で迎える、初めての冬。

 

 きっかけは、

翌春に紀伊國屋画廊(新宿)でひらかれる予定の、

森林たくみ塾の「作品展」。

 

僕ら1年目の塾生にとって、

初のオリジナル作品を展示販売する機会!

 

それで、ピンチとはつまり・・

「デザイン」。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

入塾以来ずっと、

指導された通りに、ひたすら製品を作って来た。

 

しかし今度は、オリジナルの作品だ。

それも、販売される・・!

 

 

 

12月の初旬、塾の師範や理事長たちを前に、

各自プレゼンテーションを行った。

 

 生まれて初めて経験する、企画とデザインのプレゼン。

 

同期のほとんどが審査を通過する中、

僕の案は「やり直し」を命じられた・・。

 

『アイディアは面白いけど、デザインが駄目』と、

師範に言われたのだ・・。

 

 

帰宅後、

悔しいながらも、さっそく次案にとりかかった。

 

しかし、何ということか・・!!

次の手をどう打ったらいいのか、

その後の僕は、わからなくなってしまったのだ・・。

 

 

アイディアはいいが、デザインが悪い。

 

仮にアイディアを出せても、

それを具体的なデザインに起こす力は、また別物なのだ

・・という事実を、

このとき初めて、僕は思い知ることになった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

そもそも、僕はこれまでの人生で、

デザインについて考えたことなど、ほとんど無かった。

 

このブログを 最初から読んで下さっている方々には、

きっとおわかりいただけると思う。

 

 僕は最初から、

「木工」や「家具作家」に憧れていたわけではなかった。

 

『自分の生き方をどうしよう??』と右往左往するうち、

オークヴィレッジ(と、森林たくみ塾)に出会った。

 

 稲本正さん率いるオークヴィレッジの、

モノ作りをしながら田舎で生活する・・という、

 「ライフスタイル」の部分に憧れたのだ・・。

 

 

過去に僕は、「デザイン」の勉強はおろか、

ほとんど意識したことすらも無かった・・。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

どうデザインしたらいいんだろう?

 

自分の好きなカタチって、何だろう?

 

そもそも、「デザイン」って、いったい何だ??

 

 

・・難しく考え過ぎていたわけではない。

 

何かを真似しようにも、

好みのモノのデザインが、てんでにバラバラで、

一番好きなカタチが何なのかすら、単純にわからなかったのだ。

 

どこを目指せばいいのか、わからなかった。

 

 

君は何が好きなのか、

君は何を目指すのか、

君は何を作りたいのか。

 

 

何かをデザインする、ということは即ち、

自分は何者なのか、と、

突き詰めて自らに問うことであった・・。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

脱サラ後、初めて重苦しい気分に襲われた・・。

 

頭の中身が軽かった僕は、これまで、

ほとんどプレッシャーを感ずることも無く、

木工の道に飛び込んで来たのだ。

 

アイディアと工夫で、きっとうまくいくと、

「根拠」のない自信があったのだ。

 

だが今、「根拠」が必要とされていた。

 

デザイン力がなければ、

オリジナルな『モノ作り』は出来ない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

どうしたらいいのかわからない、

情けない気分だった。

 

解決の糸口がつかめないまま、数日が過ぎたある日、

僕は30歳の誕生日を迎えた。

 

・・こんなに情けない30歳がいるか・・??

 

収入の無い僕に代わり、生活を支えてくれていた奥さんが、

誕生祝いで、高山市内のホテルのランチを予約してくれていた。

 

よし、この食事が終わったら、

今度こそデザインを決めてやる!

 

精一杯の強がりを言って笑って、

重たい気分ごと、僕は食事を飲み込んだ。

 

 

帰り際、会計を済ませている奥さんの背中を、

ぼんやりとロビーの端からながめている時、

ふいにボロボロと熱い涙が、こぼれて落ちた。

 

コンチキショウメ!!

・・と、僕は胸の中で呻いていた。。

 

 

 

その日の晩、何とかかんとか、

ひとつの小さなテーブルをデザインした。

 

苦しんだわりには、何の変哲も無い、

ごく普通のサイドテーブル(座卓)だったけれど・・。 

 

さんざん悩んで、何とか決めた、自分なりの一つの答え。

達成感や満足感は、特になかったけれど、

とりあえずの開放感があった・・。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

翌年3月の新宿の作品展には、

僕たち1年生は現地に行けなかったのだが・・

僕の初作品の小テーブルは、ちゃんと売れた。

 

買ってくれたのは、

僕と同世代くらいの女性だったそうだ。

 

そしてなんと翌日、わざわざその女性は、

(作者である)僕宛ての手紙を会場に届けてくれたらしい。

 

東京から戻って来た2年生(卒塾生)にその話を聞き、

僕は手紙を受け取った。

 

『こんなテーブルが欲しかった。とても気に入っています』

『このテーブルを作った人に、この感謝の気持ちを伝えたい・・』

 

と、小さな文字で書かれていた。

 

 

その一瞬で、体中の血液が、一気に暖まった。

その一瞬で、何もかも全てが救われた・・。

 

これで良かったんだと、初めて思えた。

 

家に帰り、奥さんにもその手紙を見せて、

その晩は二人でヨロコビの祝杯(ビール)を上げたのだった・・。

  

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 当時作った小テーブルの試作品。

素材はイタヤカエデで、樹皮を生かしたデザインでした。

ひどくボロボロですが、今も使っています・・。

 

修行の日々・・2 「生活と心模様」

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清見村での木工修行の2年間、

僕自身は、まったく無収入だった。

 

公的な技術専門校とは違って、一切の補助がなかった。

 

だから、入塾に際しての条件として、

最低2年間を生活できるだけの蓄えが必要・・とされていた。

 

が、僕の場合は・・・

奥さんが生活を支えてくれたのだ。

 

 

 

(注:僕が修行していた十数年前の「森林たくみ塾」と、現在とでは、運営の形態がいろいろと変わっているようです)

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

12人の同期生は、当然だが、僕よりも若い独身男女がほとんど。

 

夫婦で飛騨高山に移って来たのは、僕を含めて3人だけ。

僕以外の2人は、早期退職でこの世界に挑戦しにやって来た、

年配男性たちであった。

 

 

僕の奥さんは、高山市内の米穀店に就職し、生活を支えてくれた。

僕は被扶養者となり、2年間を過ごしたのだ。

 

 

僕は日々、昼と夜の2食分の弁当を作ってもらい、

高山市内の借家から清見村の塾地まで、

片道12kmの道のりを通った。

 

昼間はひたすら、

親会社・オークヴィレッジの家具やクラフト品の制作。

夜間は座学や、課題の制作。

 

そんな毎日なのに、しかし、

タフな仲間連中は、深夜や、夜学のない晩などを利用して、

アルバイトもこなしていた・・。

(打ちっぱなしゴルフ場の球拾いなど)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ところで、話をぐっと基本的な部分に戻してみる。

 

長く勤めた会社を辞めて、木工の道へと転身したことで、

多くの人から言われることが2つある。

 

1つ目は、「よく決断しましたね!」「すごい勇気ですね!」

ということ。

 

2つ目は、「奥さんの理解があってこそですね!」

ということ。

 

 

奥さんの理解については、本当にその通りで・・。

理解というか、共同意識というか、

共感してもらえるように丸め込んだ、というか・・。

 

 

しかし僕自身については、

「勇気を出して決断した」という感じではなく・・。

 

夢を追いかけているうちにこうなってしまった、というか、

夢みたいなことばかり考えているうちにこうなった・・というか。

 

頭の中身が軽いというか、

結局、思ったことをどうしてもやってみないと気が済まない、

というか・・。

 

けれど、頭の中身が軽かった分、

後々ちゃんと、重たいツケがまわって来るのだけれど。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

でもまあ、そんなわけで、

当時の僕ら(夫婦)は、新しい土地での新しい生活を、

自分たちなりに楽しんで暮らした。

 

休日には、見知らぬ土地を旅してまわった。

 

飛騨古川へ、白川郷へ、下呂温泉へ、

能登や金沢へ・・。

 

 

将来への不安のようなものは、あまり感じていなかった。

 

木工業界や家具業界が下降気味である・・という現実を、

たくさん見聞きしていても。

 

下降の傾向に当てはまらないやり方を考えればいい、と、

単純に考えていた。

(もちろん、そんなに甘いものではないことは、独立後に思い知る)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

それが「良いもの」ならば、工夫すれば売れる・・という考え方が、

11年間、東京の書店で働いたことで身に付いていた。

 

「本」というのは、

どこの本屋でも同じ値段で、同じものを買うことができる。

 

だから書店人が本を売るためには、

知恵をしぼって、工夫をこらさなければならない。

 

売れている本を、他所よりも多く売るためには、どうすればいいか。

知られていない良書を買ってもらうために、どう工夫するか。

 

価格の競争ではなく、知恵を絞ること。

人の関心を、ぐっと引きつける企画力。

 

つまり、アイディアでがんばっていこう・・と、

僕は考えていたのだ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

しかし、修行1年目が経過するころ、

僕はモノ作りのもっとも基本的なところでつまずき、

ひどく傷つき、

情けの無いことに、

奥さんの前でポロポロと涙をながすことになる・・。

 

(つづく)

 

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(写真上)オークヴィレッジのショールームにて。

(写真下)岐阜大学演習林で、樹木の調査。

 

 

(下写真)高山市の木材市を見学

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修行の日々・・1

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1997年4月、

僕はそれまで勤めていた東京の会社を退職し、

飛騨の清見村にある「森林たくみ塾」へと入塾した。

29歳のときだった。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

11年間務めた会社(書店)を辞めるのは、

僕にとって、本当に大きな出来事だった・・。

 

その職場には大恩があり、

職場の人たちへの僕の思いの重量は、

十数年が経過した今でも、言葉には変換できない。

 

ただひたすら、自分の信じた道を生きて、

悪戦苦闘する姿を見てもらう他ない・・。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

さて。

僕が踏み入った「森林たくみ塾」の世界は、

あまりにも未知に過ぎた・・。

 

会社員として11年間積み上げたキャリアは、

当然だが、すべてゼロに戻った。

 

時間をかけて登って来た道を、一気に海抜0m地点へと、

突き落とされたような感じがした・・。

 

当時の森林たくみ塾のカリキュラムには、

メインの木工技術の習得の他に、

独自な環境教育プログラム が含まれていた。

 

なので、「木工」以前に、

耕耘機で塾の畑を耕したり(冒頭写真)、

ダンプで堆肥を運んで撒いたり、

ユンボで穴を掘ったりと、

いきなりのフィールド・ワークに面食らった。

 

つい先日まで、

ネクタイを締めて、満員電車に揺られていたのだ。

 

耕耘機に触れたことはおろか、

スコップですら、まともに使った事が無かったのだ。

 

マニュアル車を運転出来ないと、

お話にもならないところだった・・。

 

 

 何よりも僕が落ち込んだのは、

このタフなフィールドにあって、

いかにも自分がヤワなお坊ちゃんに感じられたことだ。

 

冒頭の耕耘機の写真を見て欲しい。

都会からやって来た「坊ちゃん」丸出しだ。

 

対して、同期生は、タフな連中が多かった。

 

連中は、持参する弁当からして、すでにタフだった・・。

 

でっかいタッパーに、大量の白米とキャベツの千切りのみを

詰めてきた強者もいた・・。

(2年間無収入で修行するので、みんな金が無かった)

 

 

こんなタフな場所に集まって来る連中だ。

男も女もクセのある、

図太い人間に決まってる(←失礼だなあ・・)

 

神経が細くて、弱っちくて、

傷つきやすいガラスの青年は、

どう見ても自分だけだ・・と焦っていた。。

 

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*写真上*

対向車すれ違い不可な農道の突き当たりに、

当時のたくみ塾はあった。

*写真下*

当時、工房はプレハブ造り。タフな作業環境だった・・。

 

(次回へつづく)

 

北の国へ・・・5 「どう生きるのか」

1996年 夏、

東京・新宿の、紀伊國屋ホール

 

説明会に集まった、多数の参加者をぐるりと見渡して、

「森林たくみ塾」の理事長は、こう口火を切った。

 

 

皆さんはこれまで、自分の人生について、

徹底的に、真剣に考えてみたことはありますか?

 

自分がこれからどう生きていくのか、

本当に突き詰めて考えたことは・・・

おそらく皆さん、無いでしょう?

 

 

・・会場は沈黙。

 

が、しかし、

僕はひとり、胸の中で密かに思っていた。

 

「いや、俺はけっこう考えたよ・・」

 

 

── そう、僕はけっこう考えた。

だからこそ、この会場にいるのだ。

 

 

飛騨の清見村で、

建築・家具・クラフトを手がける、オーク・ヴィレッジ。

 

そのオーク・ヴィレッジが運営する、家具職人の養成機関が、

「森林たくみ塾」であった。

 

 

その日、紀伊國屋ホールで開かれた説明会には、

たくみ塾の活動に関心のある人や、家具職人を志す人たちが、

自分も含めて、多数参加していたのである・・。

 

 

冒頭の口上の後、理事長は続けた。

 

今日は、我々のお話しを聞いてもらい、

「木の仕事で生きていく」ということが、

いったいどういうことなのか、

みなさんに真剣に考えて欲しいと思います・・。

 

 

そのような挨拶の後、説明会は始まった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

なぜ僕は「木工」を志すことになったのか。

 

 

・・これまでの人生、

僕の木工についての知識は、ゼロに等しかった。

 

家具職人になりたいなど、考えたこともなかったし、

 木の種類も、名前も知らない。

クラフト作品やインテリアにも、特に興味がない。

 

知識も、関心も、憧れもなかった。

 

だからまさか、こんなことになるなんて、

誰よりも、僕自身が全く予想していなかった。

 

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

2年前、結婚を機に北海道へ移り住みたいと、

転職を考えた自分だったが、

何を目指したらいいのか、よくわからなくなってしまい、

そのまま暗礁に乗り上げていた。

 

 

 ・・が、時間が経つと同時に、思考はゆっくりと巡り、

やがて僕(と奥さん)は、少しずつ、また動き始めていた。

 

 

僕らは、田舎暮らしの情報誌をながめたり、

これからの生き方のことなどを、折に触れて二人で話し合った。

 

 

・・そう、田舎暮らし。

 

 札幌など、都市部での再就職は、厳しそうな実感は確かにあった。

 

でも、それとは別に、

自分は本当は、田舎暮らしがしたいんじゃないか?

・・という思いに、行き当たりつつあった。

 

 

そもそも7年前、 倉本聰さん率いる富良野塾の舞台が、

自分の中の何かを動かしたのだ。

 

その後、自分も富良野塾を目指し、

そして夢破れた。

 

けれど、自分に本当に合っているのは、

たぶん役者になることではなかった・・。

 

それならば、
 自分の、本当の場所はどこだ?
 
 自分の生き方は、いったい何だ?

 

下川町の森林組合に、手紙を書いてみた。

 置戸町に行き、木工クラフトの研修施設も見学させてもらった。

 

僕は、あちこちにぶつかりながら、探し続けた。

 

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そして、

1995年の10月に角川書店から発売された一冊の本が、

自分の場所を、

新しい一歩をどこに向かって踏み出すかを、決めた。

 

北海道ではなく、それは、岐阜県の飛騨高山市であった。

  

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ただでさえ影響されやすい自分なのに・・・。

 

飛騨の清見村にある、オーク・ヴィレッジ。

その代表である、稲本正さんのこの著書によって、

僕の人生観は変わってしまった。

 

これまでと、世界が違って見えるほど、

大きな影響を僕は受けた・・。

 

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何と、表紙が無垢のナラ材で出来ている・・という、

それだけでも相当なインパクトのある本であった。

 

素直な僕は、稲本正さんの考えに、言葉に、

頭からつま先まで、まんまと感化された・・。

 

田舎に暮らし、「木の仕事」をして生きよう。

 

これまでにないほどに固く、僕は決心していた。

 

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

こうして僕は、本が発売された翌年の夏、

「森林たくみ塾」の説明会に参加すべく、

新宿の紀伊國屋ホールに出かけたのだった・・。

 

(つづく)

 

 

北の国へ・・・4

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つい先日、蘭越町の図書館から借りた村上龍さんの新刊、

「55歳からのハローライフ」を読み終えた。

 

かなり切実な物語がつまった小説で、その中の一編に、

僕は思わず唸ってしまった・・!

 

 

再就職を志す男性が、相談先のカウンセラーから、

ある問いを投げかけられる場面。

その言葉によって男性は、

とても辛く、苦しい思いをすることになるのだが・・・

 

 

実は僕も二十年ほど前に、札幌のとあるIT企業の担当者から、

同じ言葉を投げかけられたのだ。

 

すなわち、

 

田代さんは、何ができますか?

田代さんは、何がしたいですか?

 

・・という問いかけである・・。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今から二十年くらい前のお話。

 

時はまさに、インターネット黎明期。

風雲急を告げる、IT 業界の急成長の予感を、

僕はいち早くキャッチしていた・・はずもなく、

むしろ、最も疎いほうの部類であった・・。

 

そんな自分が、

北海道の移住情報誌「北の大地に移り住む」に紹介されていた

新進のIT企業に、なぜ採用の問い合わせをしたのか??

 

当時ニュースステーションで、

孫正義氏が久米宏さんに語った言葉のせいだ。

 

これからは、ハイテクかハイタッチの時代です

 

・・と、孫氏はきっぱりと言い切っていた。

そのどちらでもない中途半端なものは、

淘汰されていくであろう・・と。 

 

ハイタッチとは、より人間的な触れあい感や、

手作り感の伝わる仕事のことを指すらしいのだが、

そちらはあまりピンと来なかった。

 

一方、ハイテクの未来は、

超・疎い僕にすら、勢い伸びていきそうに感じられて・・。

 

ハイテクこそ挑戦の価値あり!と、

軽率な僕は、暗示にかかったらしい・・。

 

そこで、

「未経験者も採用の可能性あり」との記載に魅せられて、

札幌近郊の、あるIT企業に問い合わせてみたのだった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

電話に出た担当者は、若い感じの声の男性で、

とても丁寧な対応だった。

 

僕は、その時の自分の状況を手短かに説明した。

 

現在は、東京の書店で働いていること。

結婚を機に、北海道へ移り住みたいこと。

コンピュータのシステムやソフト開発については、

全く知識も経験も無いこと。

 

「わかりました。」と、

その若い担当者は穏やかに、

しかし、はっきりとした口調で言った。

「私たちは、未経験の方も採用する場合がございます」

と。

 

そして、

「それでは」と、誠実な声で続けた。

 

「それでは田代さんは、

 この会社で何がしたいですか?

 田代さんは、どんなことが出来ますか?」

 

 

・・そう問われた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 

僕は・・言葉に詰まってしまった。

 

そんなことは、今まで考えたこともなかったからだ。

 

 

何がしたいのか

何ができるのか・・・。

 

高校卒業後、18歳で書店に入社し、

26歳(電話の当時)までの8年間、

考えたこともなかったし、人に問われたこともなかった。

 

・・受話器を握りしめ、言葉を手探るように答えた。

 

『僕は・・、書店での勤務しか経験がなく、

 何が出来るのか・・わかりません。

 もう一度考えて、また改めてお電話させていただきます』

 

・・何とかそう言って電話を切った。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

そこから僕の迷走は始まる。

 

自分が何をしたいのか、

よくわからなくなってしまった僕は、

「やはり自分には、書店の仕事しかイメージできない」

と思い、

とりあえず札幌で知っている、M善や、KのK屋書店に

電話で問い合わせてみたところ、当然、門前払い。

 

他、小規模な書店などに問い合わせてみるも、

中途採用など、200%ありえない話のようだった・・。

 

いったいどうすればいい??

彼女の地元の、地方新聞社は?

それとも、彼女の父が紹介してくれそうなところで、

ダスキンレントオール?

砂川のソメスサドル(革製品)が、

営業マンを募集しているらしい?

・・・。

 

決め手どころか、取っ掛かりすらも掴めず、

北海道移住の夢は、とりあえずお預けになってしまい、

やがて 僕らは、挙式の日をむかえることになった。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

1994年の10月、僕らは結婚し、

東京の日野市にアパートを借りて、

新しい生活をスタートさせた。

 

結婚して、何よりもうれしかったのは、

もうこれで飛行場でさよならしなくてもいいんだ・・

ということ・・。

 

 

二人での家族生活が始まると、何やかやと、

身の回りの環境や、時間の持ち方などが変化し、

書店の仕事の方も、新規の出店計画が続いて忙しく、

新しい日々が過ぎて行った。

 

そしてもうその頃は、北海道に移り住みたいのかどうかも、

自分ではあいまいになっていた・・。

 

(つづく)

 

 

 

 

北の国へ・・・3

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1994年の4月、

富良野塾の試験に落ちてから2ヶ月後、

僕は北海道在住の彼女と二人で、登別のクマ牧場にいた。

 

山上にあるクマ牧場へは、

麓の温泉街からロープウェイで着く・・。

 

東京の春とはまた違う、ぼんやりとした感じの気候で、

頭上には淡い色の青空がどこまでも広がっていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

落選後の2ヶ月間を、僕は東京で、

なんとも冴えない気分で過ごした。

 

普段通りに生活し、仕事をこなしながらも、

胸の中に何か、うすくモヤがかかっているような感じだった。

 

 

 

1年半前に屋久島で出会った彼女とは、

北海道を旅するごとに会っていた。

一般に言う、遠距離交際であった。

 

だから彼女は、

僕が北海道に移り住みたい・・と思い始めた経緯も、

富良野塾を目指した経緯も、

すべてを同時進行で知っていた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

作家の倉本聰さんが主宰する富良野塾は、

役者とシナリオライター育成のための、

倉本さんの私塾だ。

 

2年間、授業料は一切かからない。

そのかわり、塾生は春先から晩秋にかけ、

富良野の農家の出面に出て、必死に生活費を稼ぐのだ。

 

もちろん、卒塾後の保証など何もない。

何もかもが自力で、自己責任で道を切り開くしかない。

 

そんな無茶な富良野塾なのに、

毎年の募集に全国から何百人という男女が志願する、

非常に狭き門なのであった・・。

 

 

自分が仮に合格し、2年間修行をしたとして、

その後は具体的にどうするのか、

そこまでのプランは、受験前には描けていなかった。

 

ただし、

プロの役者として食っていくのは、そうとう難しいだろうなぁ

・・ということだけは、予測出来た。

 

何かしら生活の仕組みを、

自分なりに考えるほか無いだろう・・

そうんなふうに、アバウトに考えていた。

 

ただ、

自分の青春(…当時26歳)を掛けてみるだけの価値が、

あると信じていた。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

そのようなことも含めて、

僕は北海道で彼女と会うたびにいろんな話をした。

 

東京からは電話ボックスで、テレホンカード必須で、

長話しをしていた・・。

 

 

・・ が、しかし、

結局僕は、入塾試験に落ちてしまった。 

 

思い切って登り始めた階段が、

ぷつりと途切れてしまった ように感じられた。

 

 

何度でも挑戦するのが「役者」の道だろう!

・・という思いとは裏腹に、

最初の一発で見いだされなかったのは、

素質が弱い・・ということじゃないの??

という、気弱な思考が拭いきれなかった・・。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

あいまいな気分のまま訪れた北海道は、

大型連休前のハンパな時季のせいか、

全体にゆったりと、穏やかに感じられた。

 

彼女と一緒に訪ねたクマ牧場も、

観光客の姿はまばらで、ほのぼのと、

のんびりムードが漂っていた・・。

 

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その時に突然、ふと感じた。

 

やわらかい陽射しの中で、

ぼんやりとクマたちの様子をながめていた時に、

その真新しい気分は、ふいに僕の胸の中に現れた。

 

 

自分ひとりで追いかける夢は終わったなぁ・・

 

という、不思議にさっぱりした感覚が、

なぜだか突然に、胸の中で広がりはじめたのだ。

 

それまで胸の内を覆っていた、うすい灰色の膜が、

パラパラとはがれ落ちていくようだった・・。

 

 

クマ牧場からの帰り道、クリアになった頭の中で、

僕は一つのことを考え続けていた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

彼女が当時乗っていたクルマ、

ホンダ・インテグラを運転させてもらいながら

僕が考えていたのは、

 

自分ひとりで追いかける夢はもう終わり。今度は、

ふたりで追いかける夢を見つけられないかな

・・ということだった。

 

 

登別から札幌方面へと向かう高速道路を、高速走行中、

僕はふいに助手席の彼女に、

俺と結婚してください・・と言っていた。

 

なぜそのタイミングなのか??

高速運転中のその状況下で、断られたら一体どうなるのか??

・・まったく考えていなかった。

 

とりあえず、

よい回答をもらえたので良かったけれど・・。

 

 

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

そう決めたのなら、とっとと結婚しよう

・・ということで、

その後、僕らは話を進めていったのであった。

 

 

そして、僕が東京へ戻ってから、

まるでタイミングを計ったかのように!

一冊の本が発売された。

 

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インターネットが無かった時代、

僕が働いていた「書店」という職場は、

最新の情報をキャッチするのにうってつけであった。

 

1994年6月、

TBSブリタニカから発売されたこの本、

「北の大地に移り住む」は、

<北海道で生活するための完全マニュアル>と副題にある通り、

それまで類を見ない、画期的な情報誌だった!

 

僕はこの本を隅から隅まで、

それこそ、穴があくくらいに読み込んだ・・。

 

富良野塾や役者のことは、僕の中でほとんど終わっていた。

 

その本には、

いくつかの企業の採用情報までが紹介されていて・・

「転職」という通常的な考えを、ようやく僕は持ち始めていた。

 

そこで僕は、

本に紹介されている中の、ある新進の IT企業に関心を持ち、

採用についての問い合わせの電話をかけてみた・・。

 

(つづく)

 

 

北の国へ・・・2

 

 

 ( 北海道ニセコ山麓の、廃校の家具工房「湯ノ里デスク」。

東京で会社員をしていた僕が、どのような経緯でこの仕事を始めることになったのか、書いてみたいと思います・・。)

 

 1992年の11月、生まれて初めて北海道へと旅行した!

 

 

・・実は、その2ヶ月前に、

鹿児島県の屋久島を、僕は一人旅していて・・、

そこで、同じように一人旅で来ていた、

とある女性と知り合った。

 

聞くと彼女は、北海道から来ているとのこと。

 

3年前に東京で富良野塾の舞台を見て以来、

遠ざかっていた北海道が、

ふたたび近くに現れたようにも(勝手に)感じた・・。

 

そんなわけで、(どんなわけ??)

屋久島で知り合った彼女を頼って、

僕は遥かな大地、北海道へと旅立ったのだ。

 

 

生まれて初めての北海道は、何もかもが新鮮で、

感動の連続だった。

 

清々とした空気感、

広々とした風景、

延々とした直線道路・・・。

 

二泊三日の最終日、

僕は彼女に頼んで、富良野に連れて行ってもらった。

麓郷の森の、ドラマ「北の国から」のロケ地に・・。

  

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3年前、下北沢の劇場で、

舞台「谷は眠っていた」を見てからというもの、

僕は倉本聰さんの著作を、何冊も読んだ。

そして、ドラマ「北の国から」のビデオをレンタルして、

全てを見た!

 

 

だからこの旅で、五郎の丸太小屋を訪れた時には、

しみじみと感動した。

そして、丸太小屋に掛けられていた、

倉本さんの手書きの看板に、胸がじんとなった・・。

 

灯りは小さくても、いつもあったかい

 

・・五郎さんの小屋の前で、僕はふいに、

自分がずいぶんと遠い土地まで来たことを実感したのだった・・。

 

 

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その後、東京に戻ってからも、

僕は4ヶ月に一度のペースで北海道へと旅した。

 

 何度も通ううちに、

ますます北海道が好きになっていった僕はやがて、

自分も北海道に、それも、

富良野塾に飛び込んでみようか・・と、

じわじわ考え始めていた。

 

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1994年の2月、

東京・銀座の、リクルート本社ビルで、

富良野塾(何期の募集だったか??)の2次試験を受けた。

 

受験を決心するきっかけは、これまた、一冊の本だった。

 

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インターネットなど無い時代、

このような情報は、主に、雑誌等でしか得られなかった。

 

そういう意味では、

これは倉本聰さんの創作活動の世界が紹介された、

僕にとっては画期的な情報誌であった・・。

 

この本を読みながら、

<自分はいつやるんだ? ・・今でしょ!>

・・と、熱く決意したのである。

 

1次試験は作文で、

確か、「富良野塾を受験する理由」を書くのが課題だったと思う・・。

 

やがて、1次試験通過の通知が届くと、

僕はもうすっかりその気で、

自分も北海道に行こう!

富良野塾で学び、役者として舞台に立つのだ!

・・と、

(勝手に)確信していた。

 

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2次試験の内容は、

渡された短いシナリオを演じること、

簡単なダンス、集団での面接、

・・であった。

 

もちろん、目の前の審査員席にはあの、

ギョロリとしたするどい目つきの、

倉本聰さんがいた。

 

内面を見抜かれるような、凄みのある視線に、

当然ながら緊張したが・・・

当時の僕としては、最善を尽くしたつもりだった。

 

 

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試験の数日後、落選の通知が届いた。

 

自分の生き方を、大きく転換する確信で、

ひとり胸を熱くしていた僕は、

意気込みが先走り過ぎていたこともあって、

激しく落胆した。

 

拠るべき世界を、失ってしまったように感じた。

 

胸の中が、空白になってしまった・・。

 

(つづく)